木曽へようこそ

味噌川ダム

長野県のダム資料館に描いた巨大壁画のプロジェクト紹介です。

長野県木曽郡の味噌川ダムは標高1130mにあります。
幸いな事にダムの底に沈んでしまった村はないとの事。少し遠くに木曽駒が見えます。3月の中旬まで、ダム湖は全て凍っていました。そのダムが完成して資料館が建つ事になり、目玉の一つとして壁画制作が実現したわけであります。

壁画の内容は川の源流の光景。過去の伐採でほとんど失われた原生林と動物の、資料としても価値のある絵画作品と言うのがテーマでした。けしてジオラマの背景画等ではないグレードと、絵画としての美しさを両方兼ね備えろと言う意味です。

原画を、齋藤壽氏が手掛けました。氏は森や自然を精密で上品で情緒ある透明水彩でもって表現する画家で、その仕事ぶりは一級品です。今回始めてごいっしょ出来る事になりました。
なったはいいが原画を見て腰が抜けます。この精密で正確で上品な作品を大画面の壁画に変換する作業とはすなわち死を意味しております。いえ、死はおおげさですが、大変なことになりそうです。そこで私は手を抜く事をまず考え始めました。制作期間や予算には制約というものがありますから。
さて現場に入りしばらくして手を抜くのを止めて死を覚悟することに変更しました。

近くに水木沢という原生林の保護地区があり、原生林が植林された森とは全く違うものである事を見せ付けられたんですね。そんな事当たり前だとお思いでしょうが、誰も手を付けていない森をいったいどのくらい目にする事があったろうか、というか、自分が触れてこなかっただけですが。

というわけで原生林に入ってすっかり打ちのめされ感動し影響を受けてしまったので、制作期限や予算だけで都合良く作業するような手を抜く気持ちなどは消し飛びます。

水木沢 水木沢2 水木沢3

民宿のお婆ちゃんが「見せて見せて」と仕事しているところに見学にきて、森の絵にえらく感激してくれたこともモチベーションアップに大いに繋がりました。昔はこの辺、どこもこんなんだったよ、というわけです。内心、村の人が見慣れた森の景色を描いて何の意味があるのだと思っていましたから、これにはちょっとびっくりしました。見慣れていたがなくしてしまった景色を描いていたんだにー。

そうなれば責任も重大であるわけで、後の事を考えず一生懸命絵を描き出したのです。いえ後のことを考えずというのは嘘です。ほんとは考えながらですが、それでも、一心不乱な、突き動かされるが如くのめり込みました。絵を描く仕事のモチベーションの高まりは非常に重要です。絵を描く人は多くいますが、たいていは自分が好きなように好きな絵を描きます。絵の仕事では好みにかかわらず内容も技法も限定されます。これは思いの外きつい仕事なのでして、そのため、仕事ごとにモチベーションを高め、のめり込んで愛情込めなければなかなか上手く仕上がりません。

今回の制作は普段とちょっと違い、齋藤寿先生の原画をいかに再現するかがテクニック上のポイントになります。
齋藤壽作品をご存じの方にはわかると思いますが、古典的な精密描写とテクスチャを利用した独自の技法は、そのまま写し取るだけでは壁画にはなりません。
透明水彩の技法だからといって透明色の薄塗りをしていてはただのトレースであって絵画的価値は生まれないし、逆に壁画を強調する為に繊細さを犠牲にする事もできず、判断を間違えばただの背景画のようになってしまいます。
また、精密画を精密画である状態のまま壁画にすることにも無理が生じます。まず第一に何年あっても足りません。また、壁画というものの特徴を考えれば、紙の上の精密画をそのまま壁に書き起こしてもあまり素晴らしいものになりません。
壁画の特徴を維持しつつ、紙の精密画を再現するバランスが重要です。

ここのつめが甘いと全て台無し、判断が問われるところとなります。実は原画と同じ形でそっくりに描いていながら、全く違う意味と技法で制作を行いました。それは原画の意図と効果を優先するために必要な方法でした。

具体的に例えば、原画の熊笹は「背景色の塗り込み」で表現してありますが、壁画では「葉の塗り重ね」によって表現するといった具合です。結果は、どちらも熊笹が密集しています。しかし形状以外は、原画と壁画では全く違う描き方をしているわけで、しかもそんな事には普通誰も気付かないし気にも止めないと、そういう技法の使い分けです。

とにかく絵を描く作業は形を取る事から始まります。下描きのためのドローイングをマッキントッシュで作る事が多いのですが、大きい絵になるととんでもない大きい画像データになりがちです。コンピュータが賢いといっても実は阿呆で、輪郭と陰影の区別もつきません。だから結局は手作業でいろいろ行った後に、升目を入れたり分割や拡大の計画を練るぐらいの使い方です。

実際の下描き方法は期間と予算の兼合いにより、実物大の全画面出力を使ったり、プロジェクタを使ったり、升目を元にデッサンしたりとさまざまです。これも、下書きですら最終的には手を入れなければなりません。ただ拡大して写すというだけでは、わけのわからない下書きになってしまうからです。割とここ重要なポイントです。

現場の様子

 次に固有色と大まかな陰影を入れて行きます。今回の制作はこの時点で、原画の技法との相違が相当明確になってきます。透明水彩の技法で描くには画面が大きすぎるから色調のレベルをあらかじめ決定しなければなりません。とくに黒のレベルを決めるのは難しい。計画的なつもりでも幾度となく黒レベルの修正を余儀なくされる事がありました。

徐々に描き込んでゆきます。

大きい画面での注意点は、大きいからといって大雑把に描いてはならないという事です。序盤の描写は最後まで影響します。大きさに惑わされてはいけません。

同じ意味で色も慎重に。もしある物が10段階の明度を持っていたら序盤では暗い方から3番目位の色を置く方法を取りました。後でグレーズをかけるので彩度は低めに。

壁画の大きさを考えればわかる事ですが、普通パレット上で済んでしまう調色を、すべてカップ等に大量に作らなければなりません。今回で言えば、カップに100色ほど作って、それを基本にさらにパレット上で混ぜたり追加して作るという、最終的には数百の調色を必要としました。調色の経験者ならこの辛さをわかってもらえると思うんですが・・・調色の経験者ってすくないですね。

さらに描き込んでゆきます。

といっても趣味の絵ではないのですから、描けば描くほど満足するという種類の描き込みではありません。最初から計画済みです。常に全体を把握しながら進めて行きます。グレーズかけては細部へ、また全体を触っては細部へというくり返し。このくり返し作業を、修正またはやり直しであると勘違いしている描き手もいますが、そうではないです。

このしんどい作業をやる為には絵を描く動機が必要です。それは趣味だろうと仕事だろうと変わるところはないと思います。が、仕事であれば尚更動機とモチベーションの高まりが必要です。大抵この一仕事終わったら熱が出てぶっ倒れるのが常です。今回この仕事で私も歯を一本抜きました(それは関係ないか)

その動機とモチベーションの高まり、今回は水木沢の森に影響を受けた事、齋藤先生の作品と人柄の素晴らしさ、世話になった民宿の夫婦が感激してくれた事などがいい影響を与えたのは間違いないです。担当諸氏の段取りも抜群に良かったし、何よりこの仕事を発注した公団の担当者様の見る目とこだわりのおかげで良い結果を生んだのだろうと思っとります。

木曽風景3 木曽風景1
木曽風景2 木曽風景4

仕事を終える頃には雪が溶け、ダム湖の氷も溶け、桜が咲き始め、つまり春になったわけです。

 

全体図

全景1

全景2

初出:1996.06.25

工程写真

 

 

追記 2015 齋藤壽先生のこと

もう随分と時が流れました。この記事を書いたのは仕事をした直後で、まだネットも今ほど普及しておらずウェブサイトも「ホームページ」とか言って公私混同していた頃です。でもその頃の記事もメンテしながらこうして保存しておいてよかったなと思います。

齋藤壽先生は最初、壁画の原画というものについてピンとこず、印刷で拡大する原稿のようなつもりで描かれたそうです。そのため完成した壁画原画は細密な描写の素晴らしい作品となりました。あまりの出来映えに資料館には原画そのものもしっかり展示してあるほどです。たしか、この同じ地で個展もされたと記憶しています。

翻って壁画ですが、これも齋藤先生始め公団の方々も、ここまで本格的なものになるとは思っておられなかったようで、壁画制作の進行を現場で見て驚かれていました。「源流の森」のプレートに入っている「壁画制作 細井工房」のクレジットは当初の予定にはなかったものですが大元のクライアントの方が是非にということで入れてくださったものです。普段はこのようなクレジットはされませんし、原画のある仕事や模写の場合はサインも入りません。

制作現場を訪れた齋藤先生は想像していたより原画に忠実なことに驚かれていました。原画に忠実だけれど全く別の技術による別の絵画作品になっていることが新鮮に思われたようです。「こういうふうになるとは知らなかった。細かすぎる原画を描いてすいませんでした(笑)」と、にこやかに話されている姿を忘れません。

仕事の打ち合わせや制作現場での実務的な話、完成後は打ち上げもありましたが、短いお付き合いでした。しかし密度は大変濃いものだったと私は思っています。原画に対して、また地元の原生林に対して感情移入することができて深くはまり込んだからです。その感情は作品に出ます。そして齋藤先生にも伝わったはずだと確信しています。完成した壁画をたいへん褒めてくださったし、何よりとても嬉しそうにされていました。

完成後の打ち上げの席に齋藤先生は娘さんを連れてこられていました。どれほど溺愛されてるのか一目でわかる笑顔が印象的でした。この日の打ち上げは、クライアントから末端の職人にいたるまで全員が充実感に満ちていた希有なものだったと記憶に刻んでいます。

20年近く経ち、その娘さんからご連絡をいただきました。

ずいぶん時間が流れましたが、あらためまして、味噌川では大変お世話になり、ありがとうございました。とても勉強になりました。

追悼を込めて 2015.11.24

齋藤壽作品はご家族が引き続き管理されておられます。ウェブサイトとTwitterアカウントは以下の通りです。

Website: Saitoh Hisashi atelier site
Twitter: 齋藤壽Illustration

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